Why UPDATER? // 西表島の星空を、次の世代へ。国際協力と再エネの現場を歩んだ彼が、UPDATERで描く「自然や地域と共生する発電所」
INDEX
UPDATER社員それぞれの入社のきっかけを紹介する連載インタビュー企画「Why UPDATER?」。
今回お話を伺ったのは、上村 康裕(かみむら やすひろ)さん。お客さまのご要望や地域の特性に合わせ、自然と共生する再エネ発電所づくりを進める「みんなパワー事業部」を率いています。新卒でJICA(国際協力機構)に入構し、13年間、アジアを中心に途上国の環境・インフラ支援に携わりました。東日本大震災をきっかけに再生可能エネルギーのベンチャー企業へ転じ、太陽光発電所の建設プロジェクトを指揮。その後、2023年にUPDATERへ入社しました。
一見すると、国際協力から再エネ、そして電力小売へと、まったく異なるフィールドを渡り歩いてきたようにも見えます。けれど話を伺うと、その歩みには学生時代から変わらない一本の軸が通っていました。
「自分が心を動かされた自然を、次の世代にも残したい」。
その想いをどう仕事にし、なぜUPDATERにたどり着いたのか。その時々の直感に従いながら実直に積み重ねてきた、上村さんのキャリアを伺いました。

ーーまずは昔のお話から伺わせてください。上村さんは、どんな子ども時代を過ごされていたんですか?
生まれ育ったのは、いまでこそ住宅地が広がる川崎市の北部で、当時はまだ森が残り、多摩川にも近いところでした。夏休みには朝4時に起きて森でカブトムシを採り、自分で育てたり、春や秋には朝から夕方まで多摩川で釣りをしたり、池でザリガニを捕まえたりと、とにかく自然の中で遊ぶのが大好きな子どもでした。
中学校ではサッカー部に入り、高校3年生までサッカーに熱中していました。それでも大学進学を前に、子どもの頃から一番好きだった「自然の中で遊ぶこと」を、思いきりやりたいと思うようになったんです。加えて、小学校から高校までずっと地元の公立校に通っていたこともあり、もっと広く世の中を知りたいという気持ちも芽生えていました。そこで、自然の中で遊びながら旅をして、見聞も広げられる場所を探し、大学では自然人倶楽部というアウトドアサークルに入ることにしたんです。
サークルに入ってからは授業にあまり出ず(笑)、在学中はずっと山に登ったり、川を下ったりしていました。北アルプスや雪山にも登りましたし、長良川や利根川では自分たちで筏(いかだ)を作って下りました。長期休みには無人島を巡って、釣った魚を味噌汁にして食べる。そんな毎日でしたね。
ーー日本各地を巡る中で、特に心に残っている思い出はありますか?
どれも印象深いですが、ひとつ挙げるなら沖縄の西表島です。夏の夜、降ってきそうなほどの満天の星空が広がっていて、寝転がると流れ星がいくつも見えました。みんなで夢中になって眺めていたら、カサカサと音がするんです。よく見ると、ウミガメが浜に上がってきて、産卵を始めていました。
昼間は昼間で、海に潜ると水が澄みきっていて、30メートルほど下まで見通せました。色とりどりの熱帯魚が泳ぎ、そのそばをウミガメがゆったりと横切っていく。子どもの頃から家の周りで親しんできた自然とは、また違う奥深さがありました。「身近な自然であっても、手つかずの自然であっても、この美しい地球環境がずっと残っていってほしい」。西表島で過ごした日々が、そう心から願うようになった原点です。

ーーそうした体験は、大学での学びにも影響しましたか?
学部は文系の政治経済学部でしたが、環境政策や環境経済を学べる授業があったので、自然の中で遊ぶうちに、学問としても少しずつ環境の分野に関心が向いていきましたね。
一方で、旅を重ねるうちに気になることも出てきました。訪れる地方の多くは、自然は豊かでも経済は停滞していて、過疎化や少子化が進んでいる。その一方で、東京には人やものが集中して、そこでも異なる問題が起きている。このアンバランスをどうすれば解消できるのだろうと、漠然と考えるようになりました。
ーー大学時代には交換留学も経験されたそうですね。留学先では、どんな気づきがありましたか?
3年生から4年生にかけての1年間、アメリカのオレゴン州立大学に留学しました。正直に言うと、応募した動機は「本場でアウトドアの技術を上げたい」という、ちょっと不純なものだったんですけど(笑)。念願かなって、オレゴンでも山に登ったり、キャンプや釣りをしたりしていました。
ただ、それ以上に大きかったのは、世界中から集まった留学生との出会いです。大学にはアジア、アフリカ、ヨーロッパなど、さまざまな国から学生が来ていました。同年代の彼・彼女らと話す中で、日本の旅で感じていた疑問が、世界の構図とつながったんです。
人やお金が集まる東京と、自然は豊かなのに経済が停滞する地方。その関係は、先進国と開発途上国の関係にとても似ていました。このアンバランスを解消していかなければ、地球環境も悪くなってしまうのではないかと、あらためて真剣に考えるようになりました。
「じゃあ、自分には何ができるのか?」
そう考えたときに目を向けたのが、これから豊かになっていく開発途上国でした。その発展の過程で、先進国が経験した自然破壊や公害を繰り返さないよう支援できたら、間接的にでも地球環境を守る仕事になるのではないか。それが、将来の進路を考える大きなきっかけになりました。
ーー日本の旅で抱いた疑問が、留学先で世界の課題とつながったんですね。その想いを胸に、帰国後の就職活動では、どのような仕事を考えていたんですか?
いまから30年ほど前になりますが、当時は「環境ビジネス」という言葉や仕事がほとんどありませんでした。環境に関わる仕事といえば、環境省や自然保護のNPO、あるいは理系の専門職くらい。環境に良いことをしながら稼ぐという仕事は、文系の学生にはなかなか見当たらなかったんです。
そんな中で見つけたのが、政府開発援助(ODA)※でした。先進国から開発途上国を支援する仕組みで、日本の実施機関がJICAです。ほかにも、環境について社会に発信できるマスメディアや、教育産業も受けました。教育テレビで自然番組をつくりたい、なんて思っていたんですけど、そちらはまったく縁がなくて(笑)。最終的にJICAに入り、日本が持つ公害対策や省エネのノウハウを途上国に届けることになりました。
※政府開発援助(ODA):先進国の政府が、開発途上国の経済や社会の発展を支援するために行う資金協力や技術協力のこと。日本ではJICAが実施機関を担っている。
ーーJICAに入構後は、どのような仕事から始まったのでしょうか。
最初に担当したのはインド向けのODAです。植林事業や公害対策など、まさにやりたかった分野の案件を任せてもらいました。道路建設などのインフラ事業も担当しましたね。
東京から毎月のように出張していたので、担当した2年間のうち、通算すると1年近くはインドにいたと思います。留学で身につけた英語は、入構当初はなんとか通用する程度でしたが、インドの方々と日々やり取りする中でヒアリング力とスピーキング力が鍛えられ、少しずつ仕事でも不自由なく使えるようになっていきました。
ーー現地では、どんな難しさがありましたか?
インドの方々は、とにかくよく話すんです。国際協力の世界では、「国際会議の議長にとって難しいことが2つある。日本人に話させることと、インド人を黙らせることだ」という笑い話があるくらいで(笑)。私はもともと内気なタイプだったんですが、「ここで話し負けてはいけない」と思って必死でした。実際は負けてばかりでしたけど、勉強や準備を重ねる中で、交渉力をかなり鍛えてもらいました。いまでもインド英語を聞くと、当時のアドレナリンがよみがえります(笑)。

ーーその後、スリランカに駐在されたそうですね。
スリランカには3年間駐在しました。ちょうど結婚した時期で、新婚生活がそのままスリランカ生活になりました(笑)。
事務所には日本人が3人だけで、私は最年少でした。それでも、所長は対外的な仕事で忙しく、次長も案件の推進で手一杯だったので、約15人の現地スタッフのマネジメントや予算管理、契約業務など、事務所運営のほとんどを任されることになりました。当時はまだ20代後半の若手だったこともあり、言葉も文化も違うメンバーを率いて、日本人を含めて約20人の組織を回していくのは、決して簡単ではありませんでした。もともと望んでいた環境案件とは別の仕事でしたが、組織をきちんと動かしていく経験は、いまの仕事の大切な土台になっています。
ーーほかにも、ベトナムやカンボジア、ラオス、トルコなどを担当されていますが、当時担当した国々は、いまどうなっていますか?
どの国も、当時から大きく成長しています。最初に担当したインドはグローバルサウスのリーダーとして存在感を高めていますし、ほかの国々も毎年5〜6%の経済成長を続けています。
もちろん、環境問題がすべて解決したわけではありません。それでも、先進国の教訓や技術が取り入れられているので、かつての先進国ほど環境に負荷をかけずに発展しています。たとえばベトナムでは、風力発電や太陽光発電の導入が進み、経済成長と環境負荷を切り離す「デカップリング※」も実現しつつあります。
先進国と同じ過ちを繰り返さずに、豊かになってほしい。学生時代にそう願ってODAの道を選んだので、当時関わった国々がその方向へ着実に歩んでいる姿を見ると、とても感慨深いですね。
※デカップリング:経済成長とCO₂排出量などの環境負荷を切り離し、経済が成長しても環境への負荷が増えにくい状態をつくること。
ーー13年間勤めたJICAを離れ、再エネの世界へ進まれた経緯を教えてください。
きっかけは、ベトナムで気候変動対策を担当していたときのことです。温暖化対策を議論すると、必ず「これから再エネを進めていこう」という話になりました。日本のODAでも支援したかったのですが、当時の日本には再エネ産業が育っておらず、提供できるノウハウがありませんでした。
そんな中、ベトナムの太陽光や風力の導入を支援していたのは、ドイツやスペイン、デンマークといった、再エネで先行するヨーロッパの国々です。彼らが着々と支援を進める姿を目の当たりにして、「日本も再エネに本気で取り組まなければいけない」と強く感じました。そこから、個人的に再エネの勉強を始めたんです。
しかし、勉強を始めて1年ほど経った2011年の原発事故を目の当たりにして、エネルギーのあり方を考え直さざるをえませんでした。原発には事故のリスクがありますし、化石燃料に頼れば、日本のお金がどんどん産油国へ流れていく。国内で再エネをつくってこそ、お金が地域で循環するのではないか。日本でも再エネに取り組み、その技術を磨いていけば、いずれ開発途上国にも届けられるはずだと考えました。
翌年には固定価格買取(FIT)制度が始まり、日本でも再エネ産業が立ち上がりそうな流れが見えてきました。ただ、JICAにいながら国内で産業が育つのを待ち、それからODAで支援しようとすると、少なくとも5、6年、長ければ10年はかかってしまいます。それなら、いま飛び込んでしまおうと決めました。産業がゼロからスタートする時期で、みんなが横一線に並んでいたので、少し勉強してきた自分にもできることがあるのではないかと思ったんです。加えて、JICAで経験したマネジメント力などを生かしながら、民間で事業を動かし、きちんと稼ぐことにも挑戦してみたいという気持ちがありました。
ーー転職先として、ベンチャー企業の自然電力を選んだのはなぜですか?
せっかく新しい業界に行くなら、会社も新しく、新しい動きをしているところがいいと思ったんです。私が入社を決めた当時の自然電力は、ドイツの再エネ企業juwi(ユーイ)と合弁会社を設立し、ドイツ式の再エネ事業を日本に広めようとしていました。古い慣習にとらわれず、ヨーロッパに学びながら、スピード感を持って再エネに取り組めると感じました。入社したのは創業2年目で、私は17人目の社員でした。
ーー入社後は、どのような仕事を担当されたんですか?
入社後はその合弁会社に出向し、太陽光発電所の設計・調達・建設(EPC)を担うプロジェクトマネージャー(PM)を任されました。最初は小規模な案件から始まり、やがて数十メガワット規模のメガソーラーを担当するようになりました。
一番苦労したのは、電気工事や土木工事、設備に関する知識が足りなかったことです。エンジニアや建設現場の所長さんに、一から教えてもらう日々でした。とはいえ、決められた期限と品質、予算で発電所を完成させるのは、PMである私の責任です。エンジニアや調達担当の方に動いてもらいながら、近隣住民の方や地権者さん、自治体、そして発電所を依頼してくださったお客さまとも、調整を重ねていきました。
関わる人たちの顔ぶれも、実にさまざまでした。ドイツから来たトルコ出身のエンジニアはトルコなまりの英語を、秋田の現場で施工を担う会社の方々は秋田弁を話していたので、その間に立つ私の仕事は、まるで寒流と暖流に挟まれた通訳のようでした(笑)。背景も言葉も異なる人たちと目標をそろえ、一つの発電所をつくり上げていく。苦労は多かったものの、新しい産業が立ち上がっていく高揚感と、ものづくりの醍醐味を感じる日々でした。
ーー当時は、いまよりも地域との合意形成も難しかったのではないでしょうか。
両方の反応がありました。地方では新しいことになかなか踏み出しにくい面がありますし、外国の企業と組んでいたこともあって、「何しに来たんだ」と警戒されることもありました。
一方で、原発事故を受けて「国産のエネルギーをつくらなければ」と考える方や、「使われていない土地を次の世代のために生かしたい」と考える方も多くいらっしゃいました。誘致しても工場が来なかった工業団地や、バブル期に造られたゴルフ場、スキー場の跡地を「太陽光発電所としてもう一度よみがえらせてくれるなら」と歓迎していただいたんです。なので、どちらかといえば追い風でしたね。地域が抱える課題に寄り添って事業を進めれば、ちゃんと受け入れてもらえる。それを実感できたのは大きかったです。

ーーその後、UPDATERへの転職を考えたのはなぜですか?
業界が広がっていく中で、そして自身も10年間再エネ業界に身をおくようになって、規模や数字を追いかけて開発を進めることに違和感を覚えるようになりました。自然や地域の価値を活かしきってこそ、本当の意味でより良い再エネ事業とはいえるのではないかと。
再エネ電気を使う人がどんな発電所を求めているのか、その声をもっと聞きながら発電所をつくっていきたい。そう考えて、電力の小売側からアプローチしてみたいと思ったんです。真っ先に浮かんだのが、発電所と需要家を顔の見える関係でつないでいるみんな電力でした。需要家の視点を取り入れながら「より良い発電所とは何か」を突き詰め、これからも良い発電所をつくり続けたい。それが、UPDATERを選んだ一番の決め手です。
ーー入社されたのは2023年10月ですね。最初はどのようなお仕事を?
最初は、いまの気候テック事業本部に所属しました。経営陣からは「何でも好きにやってごらん」と言われて、良くも悪くも“放し飼い”状態でしたね(笑)。私なりに、仕事との関わり方を見つけてほしいという温かい配慮だったのだと思います。
自治体や地域新電力による脱炭素取り組みの支援、電力調達、法人営業、「みんな大地」事業の自然共生サイトの検討など、本当にさまざまな仕事を経験させてもらいました。その中で、細々と太陽光発電所のメンテナンス業務を続けていたみんなパワー事業の可能性が見えてきたんです。うまく活用すれば、UPDATERとパートナーさん、お客さまのみんなが幸せになれる、「おもしろくて儲かる」事業になる。そう考えがまとまったところで、代表の大石さんに何度も壁打ちをさせてもらい、事業を立て直すプランをつくりました。
そしてついに2025年3月、「みんなパワー事業として盛り上げてごらん」と任せてもらえることになり、それから約1年間、事業の立て直しに取り組んできました。その歩みが認められ、2026年1月にはチームから事業部に格上げされました。現在は人材を募集しながら、新たなお客さまとも一緒に事業を進めているところです。

ーー現在のみんなパワー事業部では、どのような取り組みをされているのでしょうか。
国内でのメインは、お客さまのご要望と地域の特性に合わせ、自然や地域と共生する発電所を、注文住宅のようにお客さまと一緒にプロデュースすることです。さらに、海外事業も同じ部署で進めていて、日本のリユースパネルを生かしたタンザニアでの再エネ事業に取り組んでいます。
ーーみんなパワー事業部での取り組みの中で、特に手応えを感じた案件はありますか?
やはり、TBSさんとの合弁会社「TBSグリーン・トランスフォーメーション(TBS GX)」が動き出したことです。TBSさんが自前の発電所を持ち、その電気をみんな電力を通じてTBS緑山スタジオ(神奈川県横浜市)に届ける。その電気でテレビコンテンツをつくり、社会に発信していく。こうしたお客さまのニーズに応えられているのは、大きなやりがいです。この取り組みをきっかけに、TBSさんのように自社の想いのこもった再エネ発電所を持ちたいというお問い合わせも、ありがたいことに少しずつ増えてきました。
こうした取り組みが形になっているのは、みんな電力が長年築いてきた小売事業の仕組みと、電気の価値を見える化して伝えるノウハウがあるからです。ほかの会社にはなかなかない、UPDATERならではの強みだと感じています。

ーーこれまでのキャリアが、いまの仕事にどうつながっていますか?
振り返ると、これまでの経験が点と点のように少しずつつながってきた感覚があります。JICA時代に培った、関係者をまとめて同じ方向へ導く力や、組織運営、契約、予算管理の経験は、いま事業部を率いるうえで欠かせないものになっています。前職でドイツをはじめとするヨーロッパの再エネ技術を学んだことも、現在の発電所づくりにそのまま生きています。
さらに、学生時代の旅も思わぬかたちでつながりました。仕事で日本の地方(農村や中山間地域など)を久しぶりに訪れると、「昔こういう場所でキャンプをしたな」と懐かしさが込み上げてきます。その一方で、学生時代に感じていた過疎化の問題が、この20〜30年でより深刻になっていることにも気づかされました。だからこそ、再エネの力で地域に少しでも活気を取り戻せないか、と強く思うようになったんです。
ーー他社を経験されてきた上村さんから見て、UPDATERの魅力はどこにありますか?
まず、事業の面でいうと、法人や個人のお客さまに電気を届けるインフラが整っていることです。発電所をつくったあと、その電気をどこへ届けるか。その「後ろ側」がしっかりあるので、安心して発電所づくりに集中できます。
それから、電力価格が高騰した時期を乗り越えてきたことも大きいと思います。あのとき、多くの小売電気事業者が撤退しました。それでもUPDATERが生き残れたのは、みんな電力を応援して使い続けてくださる個人や法人のお客さまがいたからです。志のあるお客さまに支えられている。それはいまも変わらない、UPDATERの大きな強みだと思います。
そして、そうしたお客さまのニーズに応えようと集まってきた仲間たちです。本当に気持ちのいい人ばかりで、オフィスではいつも誰かが提案をしていますし、大変なときは自然とカバーし合う雰囲気があります。地域のパートナーさんから季節の贈り物が届くのも、人と人とのつながりを大切にしているからこそだと思います。
ーー社内で「この人は面白い」と感じる方はいますか?
ひとりは、タンザニア事業を立ち上げた宇野さんです。学生時代にタンザニアでインターンをした経験から、「恩返しがしたい」という想いで事業化までこぎつけてしまいました。夢を語る彼の姿に、周りが共感して応援したくなる。そんな不思議な魅力があります。
新卒の彼が「アフリカで再エネ事業をやりたい」と手を挙げたとき、会社はその想いを受け止め、挑戦を任せました。なかなか利益が出ない時期も諦めることなく、辛抱強く応援し続けてきたんです。そしていま、ようやく成果が見え始めるところまで来ています。このように社員の志を大切にし、「やりたいなら、やってみなさい」と背中を押したうえで、成果が出るまで辛抱強く見守る。それも、UPDATERらしさだと思いますね。みんな大地やみんなワークスなど、さまざまな新規事業が次々と立ち上がっているのも、挑戦を応援するカルチャーがあるからこそです。

もうひとりは、沖縄出身の森さんです。責任ある仕事をいくつも抱えているのに、大らかさや穏やかさを失わずに周りをユーモアで包み込みながら、肩ひじ張らずに仕事を進めていくんです。まさに「なんくるないさ」の精神ですね。誰に対しても分け隔てなく接してくれるので、一緒にいると困難も乗り越えられそうだと感じます。学生時代に私が沖縄(西表島など)で感銘を受けた人たちの姿と重なって、私は彼が大好きです。
ーー普段一緒に働くメンバーへの想いも教えてください。
管理部や法務部をはじめとするコーポレート部門、そしてみんな電力の運営チームのみなさんには、本当に感謝しています。失敗が許されない細やかな仕事を、日々着実に担ってくださっているんです。そうした積み重ねがあるからこそ、お客さまやパートナーさんからUPDATERへの信頼が生まれ、みんなパワーの新しい事業にも声をかけていただけるのだと思います。守りがしっかりしているから、私たちは攻めることができるんです。
ーー今後、仕事でチャレンジしたいことを教えてください。
自然や地域と共生する発電所を、注文住宅のようにお客さま(発電事業主)と一緒にプロデュースする。この事業を、国内外でUPDATERを支える柱へと育てていきたいです。海外事業も、日本からノウハウを一方的に持っていくだけでは終わらせたくありません。タンザニアをはじめとする海外で新しい挑戦をして、その成果を日本に持ち帰る。そんな相乗効果を生み出せれば、UPDATERならではの事業体になれると考えています。
ーーそのためには、仲間も必要ですね。どんな方と一緒に働きたいですか?
「面白くて儲かる」に共感して、新しいことに挑戦してみたいと思える方です。地球環境を少しでも良くして、次の世代につなぎたい。そんな想いを持つ方なら、なお嬉しいですね。
いま再エネには、ネガティブな話題も少なくありません。でも、再エネのポテンシャルはそれ以上にたくさんあります。同じ課題意識を持ちながら、もっと挑戦できる場所を探している方。良いものをつくりたいという想いにあふれた方に、ぜひ会いたいです。
ーー仕事だけではなくプライベートで、いま力を入れていることはありますか?
この3年間は、息子が通う小学校のPTA会長をしています。保護者ももっと学校に関わって、おもしろくて楽しい場所にできたらと思っているんです。子育てを楽しみながら地域にも還元していけるよう、もう少し挑戦してみたいですね。
家族で山に登ったり、子どもと釣りに行ったりもしています。いつか家族を西表島やスリランカにも連れていきたいですね。UPDATERの子ども参観日もそうですが、わが子に限らず、子どもたちに「世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな仕事があって、いろいろな世界があるんだよ」と伝えていきたい。私自身、そうやって視野を広げてきたので。
ーー最後に、これまでを振り返っていかがですか?
学生時代から視野を広げようと動いてきたことが、いまにつながっています。その時々の直感ややりたいことに従ってきたら、ここにたどり着いた。とても運が良かったと思います。
大石さんや同年代の上司・同僚と話すんですが、私たちが社会人になろうとしていた頃は、環境ビジネスなんて専門家以外にはほとんどありませんでした。それがいまでは、環境に良いことをしながら仕事をして、きちんと稼げるようになった。この20〜30年は本当に面白かったですし、諦めなくてよかったと思います。
学生時代に遊んだ西表島の海や、各地の山や川。自分が心を動かされた自然が、次の世代にもちゃんと残ってほしい。もちろん、人が暮らすためには開発も必要です。それでも、子どもたちにも同じように自然を楽しみ、感動してほしい。その想いで、これからも仕事に向き合っていきます。

「環境で稼ぐ仕事を、諦めなくてよかった」
取材の終わりに上村さんが語ったこの言葉には、これまでの歩みが凝縮されているように感じました。
多摩川で生き物を追いかけた少年時代。日本各地を旅し、西表島で満天の星空とウミガメの産卵に出合った学生時代。上村さんの原点には、いつも自然の中で心を動かされた体験がありました。同時に、旅先で目にした「自然は豊かなのに、経済が停滞していく地方」の姿が、のちのキャリアを方向づける問いになっていきます。
その問いを胸に、ODA、ゼロから立ち上がる再エネ産業、そしてUPDATERへ。選んできたフィールドは毎回大きく変わっていますが、根っこにある想いは一度も揺らいでいません。インドで鍛えた交渉力も、スリランカで培ったマネジメントも、秋田の現場で人と人をつないだ経験も、いま「自然や地域と共生する発電所」づくりの中で生きています。学生時代にキャンプをした土地を、今度は発電所づくりのために訪れ、かつて感じた地方の課題に再エネの力で向き合っている。その姿に、一本の線を見た気がしました。
自分の原体験を、仕事を通じて次の世代に手渡していく。上村さんのように、再エネが持つ本来の可能性を信じながらも、いまの現状にもどかしさを感じている方。地球や地域の未来のために、自分の力をもっと生かせる場所を探している方。UPDATERは、そんな想いを持つ仲間を心からお待ちしています。
なお、上村さんとともにタンザニア事業を進める宇野さんのインタビューもあわせてご覧ください。
Why UPDATER? // 自分の軸を貫いて生み出したタンザニアでの事業開発

上村康裕(Kamimura Yasuhiro)「あだ名:YASU」 みんなパワー事業部 部長
今回お話を伺ったのは、上村 康裕(かみむら やすひろ)さん。お客さまのご要望や地域の特性に合わせ、自然と共生する再エネ発電所づくりを進める「みんなパワー事業部」を率いています。新卒でJICA(国際協力機構)に入構し、13年間、アジアを中心に途上国の環境・インフラ支援に携わりました。東日本大震災をきっかけに再生可能エネルギーのベンチャー企業へ転じ、太陽光発電所の建設プロジェクトを指揮。その後、2023年にUPDATERへ入社しました。
一見すると、国際協力から再エネ、そして電力小売へと、まったく異なるフィールドを渡り歩いてきたようにも見えます。けれど話を伺うと、その歩みには学生時代から変わらない一本の軸が通っていました。
「自分が心を動かされた自然を、次の世代にも残したい」。
その想いをどう仕事にし、なぜUPDATERにたどり着いたのか。その時々の直感に従いながら実直に積み重ねてきた、上村さんのキャリアを伺いました。

多摩川で虫を追いかけた少年が、テントを担いで日本を旅するまで――自然の中で広がっていった世界
ーーまずは昔のお話から伺わせてください。上村さんは、どんな子ども時代を過ごされていたんですか?
生まれ育ったのは、いまでこそ住宅地が広がる川崎市の北部で、当時はまだ森が残り、多摩川にも近いところでした。夏休みには朝4時に起きて森でカブトムシを採り、自分で育てたり、春や秋には朝から夕方まで多摩川で釣りをしたり、池でザリガニを捕まえたりと、とにかく自然の中で遊ぶのが大好きな子どもでした。
中学校ではサッカー部に入り、高校3年生までサッカーに熱中していました。それでも大学進学を前に、子どもの頃から一番好きだった「自然の中で遊ぶこと」を、思いきりやりたいと思うようになったんです。加えて、小学校から高校までずっと地元の公立校に通っていたこともあり、もっと広く世の中を知りたいという気持ちも芽生えていました。そこで、自然の中で遊びながら旅をして、見聞も広げられる場所を探し、大学では自然人倶楽部というアウトドアサークルに入ることにしたんです。
サークルに入ってからは授業にあまり出ず(笑)、在学中はずっと山に登ったり、川を下ったりしていました。北アルプスや雪山にも登りましたし、長良川や利根川では自分たちで筏(いかだ)を作って下りました。長期休みには無人島を巡って、釣った魚を味噌汁にして食べる。そんな毎日でしたね。
ーー日本各地を巡る中で、特に心に残っている思い出はありますか?
どれも印象深いですが、ひとつ挙げるなら沖縄の西表島です。夏の夜、降ってきそうなほどの満天の星空が広がっていて、寝転がると流れ星がいくつも見えました。みんなで夢中になって眺めていたら、カサカサと音がするんです。よく見ると、ウミガメが浜に上がってきて、産卵を始めていました。
昼間は昼間で、海に潜ると水が澄みきっていて、30メートルほど下まで見通せました。色とりどりの熱帯魚が泳ぎ、そのそばをウミガメがゆったりと横切っていく。子どもの頃から家の周りで親しんできた自然とは、また違う奥深さがありました。「身近な自然であっても、手つかずの自然であっても、この美しい地球環境がずっと残っていってほしい」。西表島で過ごした日々が、そう心から願うようになった原点です。

ーーそうした体験は、大学での学びにも影響しましたか?
学部は文系の政治経済学部でしたが、環境政策や環境経済を学べる授業があったので、自然の中で遊ぶうちに、学問としても少しずつ環境の分野に関心が向いていきましたね。
一方で、旅を重ねるうちに気になることも出てきました。訪れる地方の多くは、自然は豊かでも経済は停滞していて、過疎化や少子化が進んでいる。その一方で、東京には人やものが集中して、そこでも異なる問題が起きている。このアンバランスをどうすれば解消できるのだろうと、漠然と考えるようになりました。
「環境で稼ぐ仕事」がなかった時代に――留学先で見つけた、開発途上国支援という道
ーー大学時代には交換留学も経験されたそうですね。留学先では、どんな気づきがありましたか?
3年生から4年生にかけての1年間、アメリカのオレゴン州立大学に留学しました。正直に言うと、応募した動機は「本場でアウトドアの技術を上げたい」という、ちょっと不純なものだったんですけど(笑)。念願かなって、オレゴンでも山に登ったり、キャンプや釣りをしたりしていました。
ただ、それ以上に大きかったのは、世界中から集まった留学生との出会いです。大学にはアジア、アフリカ、ヨーロッパなど、さまざまな国から学生が来ていました。同年代の彼・彼女らと話す中で、日本の旅で感じていた疑問が、世界の構図とつながったんです。
人やお金が集まる東京と、自然は豊かなのに経済が停滞する地方。その関係は、先進国と開発途上国の関係にとても似ていました。このアンバランスを解消していかなければ、地球環境も悪くなってしまうのではないかと、あらためて真剣に考えるようになりました。
「じゃあ、自分には何ができるのか?」
そう考えたときに目を向けたのが、これから豊かになっていく開発途上国でした。その発展の過程で、先進国が経験した自然破壊や公害を繰り返さないよう支援できたら、間接的にでも地球環境を守る仕事になるのではないか。それが、将来の進路を考える大きなきっかけになりました。
ーー日本の旅で抱いた疑問が、留学先で世界の課題とつながったんですね。その想いを胸に、帰国後の就職活動では、どのような仕事を考えていたんですか?
いまから30年ほど前になりますが、当時は「環境ビジネス」という言葉や仕事がほとんどありませんでした。環境に関わる仕事といえば、環境省や自然保護のNPO、あるいは理系の専門職くらい。環境に良いことをしながら稼ぐという仕事は、文系の学生にはなかなか見当たらなかったんです。
そんな中で見つけたのが、政府開発援助(ODA)※でした。先進国から開発途上国を支援する仕組みで、日本の実施機関がJICAです。ほかにも、環境について社会に発信できるマスメディアや、教育産業も受けました。教育テレビで自然番組をつくりたい、なんて思っていたんですけど、そちらはまったく縁がなくて(笑)。最終的にJICAに入り、日本が持つ公害対策や省エネのノウハウを途上国に届けることになりました。
※政府開発援助(ODA):先進国の政府が、開発途上国の経済や社会の発展を支援するために行う資金協力や技術協力のこと。日本ではJICAが実施機関を担っている。
「インド人に話し負けない」――新卒で飛び込んだ現場で培った、社会人としての基礎
ーーJICAに入構後は、どのような仕事から始まったのでしょうか。
最初に担当したのはインド向けのODAです。植林事業や公害対策など、まさにやりたかった分野の案件を任せてもらいました。道路建設などのインフラ事業も担当しましたね。
東京から毎月のように出張していたので、担当した2年間のうち、通算すると1年近くはインドにいたと思います。留学で身につけた英語は、入構当初はなんとか通用する程度でしたが、インドの方々と日々やり取りする中でヒアリング力とスピーキング力が鍛えられ、少しずつ仕事でも不自由なく使えるようになっていきました。
ーー現地では、どんな難しさがありましたか?
インドの方々は、とにかくよく話すんです。国際協力の世界では、「国際会議の議長にとって難しいことが2つある。日本人に話させることと、インド人を黙らせることだ」という笑い話があるくらいで(笑)。私はもともと内気なタイプだったんですが、「ここで話し負けてはいけない」と思って必死でした。実際は負けてばかりでしたけど、勉強や準備を重ねる中で、交渉力をかなり鍛えてもらいました。いまでもインド英語を聞くと、当時のアドレナリンがよみがえります(笑)。

ーーその後、スリランカに駐在されたそうですね。
スリランカには3年間駐在しました。ちょうど結婚した時期で、新婚生活がそのままスリランカ生活になりました(笑)。
事務所には日本人が3人だけで、私は最年少でした。それでも、所長は対外的な仕事で忙しく、次長も案件の推進で手一杯だったので、約15人の現地スタッフのマネジメントや予算管理、契約業務など、事務所運営のほとんどを任されることになりました。当時はまだ20代後半の若手だったこともあり、言葉も文化も違うメンバーを率いて、日本人を含めて約20人の組織を回していくのは、決して簡単ではありませんでした。もともと望んでいた環境案件とは別の仕事でしたが、組織をきちんと動かしていく経験は、いまの仕事の大切な土台になっています。
ーーほかにも、ベトナムやカンボジア、ラオス、トルコなどを担当されていますが、当時担当した国々は、いまどうなっていますか?
どの国も、当時から大きく成長しています。最初に担当したインドはグローバルサウスのリーダーとして存在感を高めていますし、ほかの国々も毎年5〜6%の経済成長を続けています。
もちろん、環境問題がすべて解決したわけではありません。それでも、先進国の教訓や技術が取り入れられているので、かつての先進国ほど環境に負荷をかけずに発展しています。たとえばベトナムでは、風力発電や太陽光発電の導入が進み、経済成長と環境負荷を切り離す「デカップリング※」も実現しつつあります。
先進国と同じ過ちを繰り返さずに、豊かになってほしい。学生時代にそう願ってODAの道を選んだので、当時関わった国々がその方向へ着実に歩んでいる姿を見ると、とても感慨深いですね。
※デカップリング:経済成長とCO₂排出量などの環境負荷を切り離し、経済が成長しても環境への負荷が増えにくい状態をつくること。
目の前で欧州勢が支援する姿に――震災を機に、ゼロから立ち上がる再エネ産業へ
ーー13年間勤めたJICAを離れ、再エネの世界へ進まれた経緯を教えてください。
きっかけは、ベトナムで気候変動対策を担当していたときのことです。温暖化対策を議論すると、必ず「これから再エネを進めていこう」という話になりました。日本のODAでも支援したかったのですが、当時の日本には再エネ産業が育っておらず、提供できるノウハウがありませんでした。
そんな中、ベトナムの太陽光や風力の導入を支援していたのは、ドイツやスペイン、デンマークといった、再エネで先行するヨーロッパの国々です。彼らが着々と支援を進める姿を目の当たりにして、「日本も再エネに本気で取り組まなければいけない」と強く感じました。そこから、個人的に再エネの勉強を始めたんです。
しかし、勉強を始めて1年ほど経った2011年の原発事故を目の当たりにして、エネルギーのあり方を考え直さざるをえませんでした。原発には事故のリスクがありますし、化石燃料に頼れば、日本のお金がどんどん産油国へ流れていく。国内で再エネをつくってこそ、お金が地域で循環するのではないか。日本でも再エネに取り組み、その技術を磨いていけば、いずれ開発途上国にも届けられるはずだと考えました。
翌年には固定価格買取(FIT)制度が始まり、日本でも再エネ産業が立ち上がりそうな流れが見えてきました。ただ、JICAにいながら国内で産業が育つのを待ち、それからODAで支援しようとすると、少なくとも5、6年、長ければ10年はかかってしまいます。それなら、いま飛び込んでしまおうと決めました。産業がゼロからスタートする時期で、みんなが横一線に並んでいたので、少し勉強してきた自分にもできることがあるのではないかと思ったんです。加えて、JICAで経験したマネジメント力などを生かしながら、民間で事業を動かし、きちんと稼ぐことにも挑戦してみたいという気持ちがありました。
ーー転職先として、ベンチャー企業の自然電力を選んだのはなぜですか?
せっかく新しい業界に行くなら、会社も新しく、新しい動きをしているところがいいと思ったんです。私が入社を決めた当時の自然電力は、ドイツの再エネ企業juwi(ユーイ)と合弁会社を設立し、ドイツ式の再エネ事業を日本に広めようとしていました。古い慣習にとらわれず、ヨーロッパに学びながら、スピード感を持って再エネに取り組めると感じました。入社したのは創業2年目で、私は17人目の社員でした。
ーー入社後は、どのような仕事を担当されたんですか?
入社後はその合弁会社に出向し、太陽光発電所の設計・調達・建設(EPC)を担うプロジェクトマネージャー(PM)を任されました。最初は小規模な案件から始まり、やがて数十メガワット規模のメガソーラーを担当するようになりました。
一番苦労したのは、電気工事や土木工事、設備に関する知識が足りなかったことです。エンジニアや建設現場の所長さんに、一から教えてもらう日々でした。とはいえ、決められた期限と品質、予算で発電所を完成させるのは、PMである私の責任です。エンジニアや調達担当の方に動いてもらいながら、近隣住民の方や地権者さん、自治体、そして発電所を依頼してくださったお客さまとも、調整を重ねていきました。
関わる人たちの顔ぶれも、実にさまざまでした。ドイツから来たトルコ出身のエンジニアはトルコなまりの英語を、秋田の現場で施工を担う会社の方々は秋田弁を話していたので、その間に立つ私の仕事は、まるで寒流と暖流に挟まれた通訳のようでした(笑)。背景も言葉も異なる人たちと目標をそろえ、一つの発電所をつくり上げていく。苦労は多かったものの、新しい産業が立ち上がっていく高揚感と、ものづくりの醍醐味を感じる日々でした。
ーー当時は、いまよりも地域との合意形成も難しかったのではないでしょうか。
両方の反応がありました。地方では新しいことになかなか踏み出しにくい面がありますし、外国の企業と組んでいたこともあって、「何しに来たんだ」と警戒されることもありました。
一方で、原発事故を受けて「国産のエネルギーをつくらなければ」と考える方や、「使われていない土地を次の世代のために生かしたい」と考える方も多くいらっしゃいました。誘致しても工場が来なかった工業団地や、バブル期に造られたゴルフ場、スキー場の跡地を「太陽光発電所としてもう一度よみがえらせてくれるなら」と歓迎していただいたんです。なので、どちらかといえば追い風でしたね。地域が抱える課題に寄り添って事業を進めれば、ちゃんと受け入れてもらえる。それを実感できたのは大きかったです。

発電所の「その先」を知りたくて――需要家とつながるUPDATERを選んだ理由
ーーその後、UPDATERへの転職を考えたのはなぜですか?
業界が広がっていく中で、そして自身も10年間再エネ業界に身をおくようになって、規模や数字を追いかけて開発を進めることに違和感を覚えるようになりました。自然や地域の価値を活かしきってこそ、本当の意味でより良い再エネ事業とはいえるのではないかと。
再エネ電気を使う人がどんな発電所を求めているのか、その声をもっと聞きながら発電所をつくっていきたい。そう考えて、電力の小売側からアプローチしてみたいと思ったんです。真っ先に浮かんだのが、発電所と需要家を顔の見える関係でつないでいるみんな電力でした。需要家の視点を取り入れながら「より良い発電所とは何か」を突き詰め、これからも良い発電所をつくり続けたい。それが、UPDATERを選んだ一番の決め手です。
ーー入社されたのは2023年10月ですね。最初はどのようなお仕事を?
最初は、いまの気候テック事業本部に所属しました。経営陣からは「何でも好きにやってごらん」と言われて、良くも悪くも“放し飼い”状態でしたね(笑)。私なりに、仕事との関わり方を見つけてほしいという温かい配慮だったのだと思います。
自治体や地域新電力による脱炭素取り組みの支援、電力調達、法人営業、「みんな大地」事業の自然共生サイトの検討など、本当にさまざまな仕事を経験させてもらいました。その中で、細々と太陽光発電所のメンテナンス業務を続けていたみんなパワー事業の可能性が見えてきたんです。うまく活用すれば、UPDATERとパートナーさん、お客さまのみんなが幸せになれる、「おもしろくて儲かる」事業になる。そう考えがまとまったところで、代表の大石さんに何度も壁打ちをさせてもらい、事業を立て直すプランをつくりました。
そしてついに2025年3月、「みんなパワー事業として盛り上げてごらん」と任せてもらえることになり、それから約1年間、事業の立て直しに取り組んできました。その歩みが認められ、2026年1月にはチームから事業部に格上げされました。現在は人材を募集しながら、新たなお客さまとも一緒に事業を進めているところです。

▲2025年12月、完工したばかりのリユースパネル100%太陽光発電所(福島県・大熊町)の前で
点と点がつながった――「注文住宅のような発電所」をプロデュースする
ーー現在のみんなパワー事業部では、どのような取り組みをされているのでしょうか。
国内でのメインは、お客さまのご要望と地域の特性に合わせ、自然や地域と共生する発電所を、注文住宅のようにお客さまと一緒にプロデュースすることです。さらに、海外事業も同じ部署で進めていて、日本のリユースパネルを生かしたタンザニアでの再エネ事業に取り組んでいます。
ーーみんなパワー事業部での取り組みの中で、特に手応えを感じた案件はありますか?
やはり、TBSさんとの合弁会社「TBSグリーン・トランスフォーメーション(TBS GX)」が動き出したことです。TBSさんが自前の発電所を持ち、その電気をみんな電力を通じてTBS緑山スタジオ(神奈川県横浜市)に届ける。その電気でテレビコンテンツをつくり、社会に発信していく。こうしたお客さまのニーズに応えられているのは、大きなやりがいです。この取り組みをきっかけに、TBSさんのように自社の想いのこもった再エネ発電所を持ちたいというお問い合わせも、ありがたいことに少しずつ増えてきました。
こうした取り組みが形になっているのは、みんな電力が長年築いてきた小売事業の仕組みと、電気の価値を見える化して伝えるノウハウがあるからです。ほかの会社にはなかなかない、UPDATERならではの強みだと感じています。

▲2026年3月、TBS-GXさんに販売した牛と共生する営農型太陽光発電所(福島県・矢吹町)
ーーこれまでのキャリアが、いまの仕事にどうつながっていますか?
振り返ると、これまでの経験が点と点のように少しずつつながってきた感覚があります。JICA時代に培った、関係者をまとめて同じ方向へ導く力や、組織運営、契約、予算管理の経験は、いま事業部を率いるうえで欠かせないものになっています。前職でドイツをはじめとするヨーロッパの再エネ技術を学んだことも、現在の発電所づくりにそのまま生きています。
さらに、学生時代の旅も思わぬかたちでつながりました。仕事で日本の地方(農村や中山間地域など)を久しぶりに訪れると、「昔こういう場所でキャンプをしたな」と懐かしさが込み上げてきます。その一方で、学生時代に感じていた過疎化の問題が、この20〜30年でより深刻になっていることにも気づかされました。だからこそ、再エネの力で地域に少しでも活気を取り戻せないか、と強く思うようになったんです。
志を応援し、背中を支え合う――UPDATERならではの温かさ
ーー他社を経験されてきた上村さんから見て、UPDATERの魅力はどこにありますか?
まず、事業の面でいうと、法人や個人のお客さまに電気を届けるインフラが整っていることです。発電所をつくったあと、その電気をどこへ届けるか。その「後ろ側」がしっかりあるので、安心して発電所づくりに集中できます。
それから、電力価格が高騰した時期を乗り越えてきたことも大きいと思います。あのとき、多くの小売電気事業者が撤退しました。それでもUPDATERが生き残れたのは、みんな電力を応援して使い続けてくださる個人や法人のお客さまがいたからです。志のあるお客さまに支えられている。それはいまも変わらない、UPDATERの大きな強みだと思います。
そして、そうしたお客さまのニーズに応えようと集まってきた仲間たちです。本当に気持ちのいい人ばかりで、オフィスではいつも誰かが提案をしていますし、大変なときは自然とカバーし合う雰囲気があります。地域のパートナーさんから季節の贈り物が届くのも、人と人とのつながりを大切にしているからこそだと思います。
ーー社内で「この人は面白い」と感じる方はいますか?
ひとりは、タンザニア事業を立ち上げた宇野さんです。学生時代にタンザニアでインターンをした経験から、「恩返しがしたい」という想いで事業化までこぎつけてしまいました。夢を語る彼の姿に、周りが共感して応援したくなる。そんな不思議な魅力があります。
新卒の彼が「アフリカで再エネ事業をやりたい」と手を挙げたとき、会社はその想いを受け止め、挑戦を任せました。なかなか利益が出ない時期も諦めることなく、辛抱強く応援し続けてきたんです。そしていま、ようやく成果が見え始めるところまで来ています。このように社員の志を大切にし、「やりたいなら、やってみなさい」と背中を押したうえで、成果が出るまで辛抱強く見守る。それも、UPDATERらしさだと思いますね。みんな大地やみんなワークスなど、さまざまな新規事業が次々と立ち上がっているのも、挑戦を応援するカルチャーがあるからこそです。

もうひとりは、沖縄出身の森さんです。責任ある仕事をいくつも抱えているのに、大らかさや穏やかさを失わずに周りをユーモアで包み込みながら、肩ひじ張らずに仕事を進めていくんです。まさに「なんくるないさ」の精神ですね。誰に対しても分け隔てなく接してくれるので、一緒にいると困難も乗り越えられそうだと感じます。学生時代に私が沖縄(西表島など)で感銘を受けた人たちの姿と重なって、私は彼が大好きです。
ーー普段一緒に働くメンバーへの想いも教えてください。
管理部や法務部をはじめとするコーポレート部門、そしてみんな電力の運営チームのみなさんには、本当に感謝しています。失敗が許されない細やかな仕事を、日々着実に担ってくださっているんです。そうした積み重ねがあるからこそ、お客さまやパートナーさんからUPDATERへの信頼が生まれ、みんなパワーの新しい事業にも声をかけていただけるのだと思います。守りがしっかりしているから、私たちは攻めることができるんです。
国内と海外が影響し合う事業へ――次の世代に残したい風景のために
ーー今後、仕事でチャレンジしたいことを教えてください。
自然や地域と共生する発電所を、注文住宅のようにお客さま(発電事業主)と一緒にプロデュースする。この事業を、国内外でUPDATERを支える柱へと育てていきたいです。海外事業も、日本からノウハウを一方的に持っていくだけでは終わらせたくありません。タンザニアをはじめとする海外で新しい挑戦をして、その成果を日本に持ち帰る。そんな相乗効果を生み出せれば、UPDATERならではの事業体になれると考えています。
ーーそのためには、仲間も必要ですね。どんな方と一緒に働きたいですか?
「面白くて儲かる」に共感して、新しいことに挑戦してみたいと思える方です。地球環境を少しでも良くして、次の世代につなぎたい。そんな想いを持つ方なら、なお嬉しいですね。
いま再エネには、ネガティブな話題も少なくありません。でも、再エネのポテンシャルはそれ以上にたくさんあります。同じ課題意識を持ちながら、もっと挑戦できる場所を探している方。良いものをつくりたいという想いにあふれた方に、ぜひ会いたいです。
ーー仕事だけではなくプライベートで、いま力を入れていることはありますか?
この3年間は、息子が通う小学校のPTA会長をしています。保護者ももっと学校に関わって、おもしろくて楽しい場所にできたらと思っているんです。子育てを楽しみながら地域にも還元していけるよう、もう少し挑戦してみたいですね。
家族で山に登ったり、子どもと釣りに行ったりもしています。いつか家族を西表島やスリランカにも連れていきたいですね。UPDATERの子ども参観日もそうですが、わが子に限らず、子どもたちに「世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな仕事があって、いろいろな世界があるんだよ」と伝えていきたい。私自身、そうやって視野を広げてきたので。
ーー最後に、これまでを振り返っていかがですか?
学生時代から視野を広げようと動いてきたことが、いまにつながっています。その時々の直感ややりたいことに従ってきたら、ここにたどり着いた。とても運が良かったと思います。
大石さんや同年代の上司・同僚と話すんですが、私たちが社会人になろうとしていた頃は、環境ビジネスなんて専門家以外にはほとんどありませんでした。それがいまでは、環境に良いことをしながら仕事をして、きちんと稼げるようになった。この20〜30年は本当に面白かったですし、諦めなくてよかったと思います。
学生時代に遊んだ西表島の海や、各地の山や川。自分が心を動かされた自然が、次の世代にもちゃんと残ってほしい。もちろん、人が暮らすためには開発も必要です。それでも、子どもたちにも同じように自然を楽しみ、感動してほしい。その想いで、これからも仕事に向き合っていきます。

あとがき
「環境で稼ぐ仕事を、諦めなくてよかった」
取材の終わりに上村さんが語ったこの言葉には、これまでの歩みが凝縮されているように感じました。
多摩川で生き物を追いかけた少年時代。日本各地を旅し、西表島で満天の星空とウミガメの産卵に出合った学生時代。上村さんの原点には、いつも自然の中で心を動かされた体験がありました。同時に、旅先で目にした「自然は豊かなのに、経済が停滞していく地方」の姿が、のちのキャリアを方向づける問いになっていきます。
その問いを胸に、ODA、ゼロから立ち上がる再エネ産業、そしてUPDATERへ。選んできたフィールドは毎回大きく変わっていますが、根っこにある想いは一度も揺らいでいません。インドで鍛えた交渉力も、スリランカで培ったマネジメントも、秋田の現場で人と人をつないだ経験も、いま「自然や地域と共生する発電所」づくりの中で生きています。学生時代にキャンプをした土地を、今度は発電所づくりのために訪れ、かつて感じた地方の課題に再エネの力で向き合っている。その姿に、一本の線を見た気がしました。
自分の原体験を、仕事を通じて次の世代に手渡していく。上村さんのように、再エネが持つ本来の可能性を信じながらも、いまの現状にもどかしさを感じている方。地球や地域の未来のために、自分の力をもっと生かせる場所を探している方。UPDATERは、そんな想いを持つ仲間を心からお待ちしています。
上村さんが率いるみんなパワー事業部では、自然や地域と共生する発電所づくりを一緒に進める仲間を募集しています。https://hrmos.co/pages/updater/jobs/0000001
なお、上村さんとともにタンザニア事業を進める宇野さんのインタビューもあわせてご覧ください。
Why UPDATER? // 自分の軸を貫いて生み出したタンザニアでの事業開発
UPDATERを支える、上村さんの「これまでの歩み」と「すきなこと」

上村康裕(Kamimura Yasuhiro)「あだ名:YASU」 みんなパワー事業部 部長
- これまでの歩み
大学時代にアウトドアサークルで日本各地を旅し、米オレゴン州立大学へ交換留学。新卒でJICA(国際協力機構)に入構し、インド、スリランカ、ベトナム、カンボジア、ラオス、トルコなどで、13年間にわたり環境・インフラ分野のODAに携わる。東日本大震災を機に自然電力へ転職し、独juwi社との合弁会社で大規模太陽光発電所建設のEPCプロジェクトマネージャー(PM)を務める。2023年にUPDATERへ参画。2025年にみんなパワー事業を再始動させ、現在はみんなパワー事業部で、自然・地域共生型の発電所プロデュースと海外事業を率いている。
- すきなこと
- アウトドア:学生時代から山や川、海に親しんできた。いまは家族で山登りやキャンプを楽しみ、子どもと釣りにも出かける。
- サッカー:中学・高校の6年間はサッカー部に所属し、サッカー一筋の日々を送った。いまも変わらず、サッカーが大好き。
- PTA活動:小学校のPTA会長を3年間務める。保護者も楽しめる学校づくりを目指し、地域とのつながりを育んでいる。
- 旅:いつか家族を西表島やスリランカに連れていき、世界の広さを見せるのが夢。
WRITER
戦略広報チーム
邉見 椋(へんみ りょう)
新卒時は診療放射線技師という、異色のキャリアからスタート。その後、WEBライター、大手PR会社を経て、2026年5月よりUPDATERにジョイン。メンバーの個性をレントゲンのようにクリアに伝えるインタビュー記事の連載を目指す。
現在はテキサスポーカーとゴルフを「趣味」と呼べる日を夢見て絶賛修行中。ポーカーフェイスでナイスショットを打てるようになるのが当面の目標です。